ゲンジボタル・ヘイケボタル

 毎年の夏休みは恒例の行事があった。蝉やカブトムシの虫取り、川や池で水遊び、魚取り、昼寝、大花火大会、盆踊り、などいろいろ目白押しだった。40日間は大変長い期間であり、この間に蝉が捕まえられるようになったり、泳げるようになったり、自分でも実感できるほどの成長する時期でもあった。こんな事は誰でも同じような道を辿って来ただろうから何も特別の事ではないと思う。ただ、私にとって特別な夏が一度訪れたことがある。
 今から思えば初夏の頃で夏休みに入っていたのかどうかは定かではない。近所の子供、大人も混じってそれぞれが浴衣を着ていた。お姉ちゃん達は単にうちわを持って、蒸し暑い日中から比べれば少し凌ぎやすくなった夕暮れにそのうちわをひらひらさせて集まった。夕涼みとしてはよくある光景だった。お兄ちゃん達は虫取り網と虫かごを持っていた。夕涼みに虫かごは似合わない。これから何が始まるのだろうと私は何やら期待に胸躍らせてワクワクしていた。そして、夕暮れの淡い黄昏が闇に落ちるのには時間はかからなかった。夕涼み気分は、次の新たな舞台へと移動する。待ち兼ねた虫取り網を振り回す子供を先頭に一団は誰が号令を発した訳でもなく動き始めた。急ぐほどではなく、だらだらと歩いていても10分ほどで両脇に背の低い笹の茂っている小川に出る。片側の斜面は松林で道もなく入れないが、もう一方は土手に道が付いている。あたり一面は田んぼになっているので、街灯などはなく月明かりでもなければ真っ暗なのだが、今日はこれが幸いする。風もなくどんよりとした湿った空気が蛍の飛びやすい環境を作っていた。川の流れのあるところなので、多分ゲンジボタルだろうと思うが、当時はホタルの種類など知らなかった。私の1つ下のI君は何事にも積極的で、この日も真っ先にホタルを見つけて「ほ、ほ、ほーたる来い、こっちの水は甘いぞ」と歌い始めるや否や虫取り網を勢いよく振り回した。あっちにもこっちにもと追っかけていたが、目を凝らすとどんどんその数が膨らんでいく。あたり一面の幻想的な光の渦は人に見せるためのショーのようになっていた。小川は田んぼに水を張る用水路の役割もしていたので、この季節は水かさが多かった。対岸の松林まではほんの数メートルしかないが、点滅する光は闇に吸い込まれる感じがする。その光のすべてが蛍ではなくて、得体の知れないものも含まれているような気がした。相変わらずI君は大はしゃぎで、対岸に光るホタルを取ろうと一歩踏み出し、虫取り網をいっぱいに前へ突き出した。I君はきっと足元の水面が見えていなかったのだろう。川の流れに足を取られる状況を私は見て、「あぶない!」と回りの人に知らせるように大声で言った。本人のI君は踏ん張ろうとしたのかとっさのことで動転したのか、声を出さなかった。大人の人が私の声に気が付いて、I君を捕まえた。全身びっしょりになって、川から引き上げられたI君は暗くてよく分からなかったが、真っ青になっていただろうと思う。
 私も虫かごだけを持って行ったので、お兄ちゃんの取ったホタルをその虫かごに入れてもらって帰った。虫かごの中で光るホタル、それを間近で見るのも初めてだった。光ることが不思議でどうなっているのか考えても想像できなかった。翌日、I君は体調が悪く、どう悪いのかわからないが、家から出て来なかった。私はあらためて虫かごを覗いた。昼間に見る虫かごに入ったホタルは体が黒くて、長い触覚を2本持ち、羽蟻を大きくしたような姿は気味が悪かった。夜の華やいだ雰囲気はまるでなかった。お兄ちゃんからホタルは長生きしないと聞いていたこともあって、ホタルのいた小川へ離すことにした。日中の日差しの中で虫かごを開けると、一目散に松林の笹薮の中へ飛んでいった。昨日の夜の光景を思い出したか、松林の奥で光るものを見たのは気のせいだったかもしれない。その翌日、I君は元気な姿を見せた。誰かが僕の虫取り網を取ろうとして引っ張ったんだ、と言いながら私に同意を求めた。確かにそう言われればそうだったかもしれない。でも、その誰かとは一体誰なのか分からない。
 I君は無事だったが、水の事故はこんな状況で起こるのかという一つの教訓にはなった。一般的に何でもないところなのに、事故の起きるような状況でもないのに、と思うところで事故は起きている。でも、気が付かないところで尋常でない無理をしている。I君はそれを「誰か」と表現したのだろう。それからも、私は友達どおしで決して安全と言えない池や川で泳いだり水遊びをしたが、事故はなかった。
 ところで、その後の蛍狩りは田んぼのあぜ道などで水の流れていない場所に生息するヘイケボタルを見るようになった。当時はこんな言葉を使わなかったと思うが、ゲンジボタルからヘイケボタルはリスク管理だったようだ。暫くして、小川の護岸工事が始まり川底までコンクリートで固められた。だから、あの夜にあの小川で見たゲンジボタルは最初で最後となった。

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